いくら何でも、それはちょっと……。

 突然ですが、青谷は小説よりも資料を読む率の方が高いです。(小説ももっと読んでいきたいのですけども)
 調べもの自体、結構好きです。新しい知識を得られると嬉しいし、それを作品にどう活かすか、考えるだけでも楽しい。

 初心者向けのものから小難しい専門書まで、同じ系統のものをできるだけ幅広く読むようにしています。
 基本的なことをわかりやすく書いてあるものは、重要な部分が浮き彫りになるし、知らない人にどう伝えればよいのかの参考にもなる。
 難しいのものは、読むのは少し大変だけれど、その知識を得ることでより深みに近づけた気がします。自己満足に近いけど。

 中にはちょっと想像力逞しすぎないか? とか根拠に乏しいんじゃないか? と思えるものも、おもしろければアリかな、とか。自分でもその根拠を探してみようかな、とか。楽しみ方は色々あるわけなんですが……。


 先日、とある仏教系の本(雑学系の入門書)を読みました。
 内容に関しては、根拠に乏しい部分があったり、まぁ大体知ってるようなものだったりもしましたが、そこは別にいいんです。

 ただ一つだけ、ものすごく気になったのが「ナムアミダブ」という記載。

 誤字脱字? と思ったけれど、本の中で何度か同じ記述があるので、どうやら意図的なものらしい。カタカナ書きで、初回に至っては「」つきで。

 いや……南無阿弥陀仏、でしょ? 

 漢字で書けば間違えようがないと思うんですけど、何でわざわざカタカナなんでしょう?

 漫画家の山岸凉子さんは実体験の著作の中で「南無阿弥だ仏とあるのは、このとき陀という字が思い出せなかったから」と書いていましたが……この人は漢字が全て思い浮かばなかったのでしょうか? もしや耳で聞いただけ?
 仏教研究家とか名乗って本出してるのに?

 そんな風に思ってしまうわけですよ、この一言で。

 これが漫画や小説のセリフなら気にしませんよ。「ナンマイダ〜」だって構いません。

 ですが、これを唱えることで阿弥陀如来が助けてくれる、って説明をするときに、「ナムアミダブ」では駄目でしょう。

 そもそも南無阿弥陀仏というのは、仏である阿弥陀如来に帰依(信じてすがること)します、という意味なわけで。
 その相手が「アミダブ」では通用しないのではないでしょうか。名前ではないけど敬称を間違えてるわけだし。意味がわからないまま唱えてるんじゃ、効果も期待できません。
 そして意味を伝えるにはやはり、漢字の方が適切ではないかと思います。読めるかどうか不安なら読み仮名をつけるなり、解説するなりしてもいいわけですし。
 それをしないということは、知らなかった、ということなんでしょうか?


 もしかしたらこの著者は、浄土系には詳しくなかったのかもしれません。けど私だって別に浄土系には明るくないです。密教系や禅系をほんのちょっとかじった程度です。
 無論、間違っても研究家などとは名乗れません。

 でもこれは、ものすごく初歩的なことだと思うんですよ。
 それ以外でどれだけ専門的なことを語ったって、全てが崩れ落ちるくらいに。
 仮にも「仏教研究家」が犯すミスではないはず。
 
 
 小説の場合、あくまでも空想の産物なので、ちょっとくらい間違っていても許される面はあるかもしれません。
 むしろ全てを真実のままに書いたら面白味がなくなることもあるし、ストーリーを盛り上げるにはあえて嘘をつく必要せいもあるかもしれない。

 しかし、資料にはやはり正確性が欲しいのです。
 だって知識が欲しくて読んでいるんだもの。
 好きだからこそ、許せないものだってあるのです。

 それでもやっぱり、本が好きだ〜。